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2016/11/03 20:39
マックさんの野球よもやま話
今年も日本シリーズが終わりストーブリーグが開幕を告げるFA権行使をする選手がちらほら現れ始めた今回は日本で最初にFA宣言をした松永浩美(阪急ーオリックスー阪神ーダイエー)のお話。
1978年高校を中退してドライブ外で阪急に入団、練習生を経て79年支配下登録、1981年1軍デビューを果たすと翌82年から三塁のレギュラー定着、以後打率3割6回ベストナイン4回ゴールデングラブ賞3回とパ・リーグを代表する三塁手までになった松永に転機が訪れる。
92年のシーズンオフに阪神野田浩司投手とのトレードで阪神に移籍。
世紀の大失敗として名を馳せるこのトレード、オリックス土井監督(当時)ら首脳陣と関係があった松永を放出したかったオリックスが強打の三塁を探していた阪神との間で行われたトレードだがこのトレードオリックス側の交換相手は野田ではなく別の選手を希望していた、それは仲田幸司投手だった。
入団9年目となった1992年に14勝194奪三振で阪神2位躍進の立役者となったマイクの愛称で知られた遅咲きの左腕だった。
年齢的にも釣り合いが取れていたのだが阪神側が仲田放出を拒否、その代わりとなったのが野田浩司となったこのトレード、迎えた93年松永は開幕戦5―5と大当りも第2戦で負傷、以後故障に苦しみ80試合打率・294 HR8 打点31に終わるも8/20?22にかけ世界記録となる3試合連続ホームランを記録するなどその実力の一端は見せたものの本来の実力は発揮出来ないまま不本意なシーズンを終えた松永だったがシーズンオフ間もなくの11月、この年誕生したFA制度第1号の宣言者となる。
トレードで移籍したばかりでのFAに阪神ファンは激怒、そして福岡ダイエーホークスへの移籍しFA移籍の第1号選手となる。
会見で松永は阪神への不満を爆発させる、阪神ファンスタイル逆撫でする暴言連発の中で阪神ファンの怒りが頂点に達する発言が飛び出す事になる。それは
「甲子園は幼稚園の砂場」
これは松永が甲子園の土は柔か過ぎると言う意味合いの発言なのだがマスコミがその言葉尻だけを捉え悪意ある発言になったのだがこれは松永が言いたい事はハッキリ言う性格故阪急時代からトラブルを絶えずそれは阪神時代も変わる事はなく一部マスコミからトラブルメーカー扱いした事から起きたものだが会見後も自宅を訪ねたマスコミからの阪神ファンに何かありませんか?の質問に
「何も無いね」
と発言。その後松永は雲隠れしマスコミとの接触は一切なくなったにも関わらず連日新聞には松永のコメントが掲載され松永はマスコミに恐怖を覚えたという。
移籍1年目の94年に現役最後の規定打席到達と打率3割を記録するとその後は振るわず97年オフに自由契約となりその後引退。
現在は埼玉県で阪神時代の後輩鮎川義文らと小中学生を対象としたベースボールアカデミーを開設して後進の指導にあたっている。
今回はそんなFA宣言第1号選手松永浩美のお話でした。
お読みいただきありがとうございましたm(__)m
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マックさん
3試合先頭打者連続HRは現在も記録として残っています。
背番号02と00以外で0が頭に来る背番号を付けた日本で唯一の選手でもあります。 -
マックさん
フルスイングさん、阪神との残留交渉もダウン提示で球団社長も縁がなかったと言われたようですからね。
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初回先頭打者ホームラン
3試合連続でしたね… -
思い出したくないですね(笑)
今の阪神ならば全力で引き止めていたかもしれませんが
当時の阪神はどうぞどうぞ行ってくださいという感じでした -
マックさん
フルスイングさん、阪神ファンからすれば思い出したくない選手でしょうね(笑)
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松永は私の記憶から消去されました(笑)
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魂のフルスイング炎の直球勝負!空飛ぶ豪脚さんがいいね!と言っています。
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もなかさん
どぐされ球団のアストロゼロみたいですね。
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もなかさん
僕はよく、凧上げや駒回しをしました。東映の駒はへそがなくて回らなかった。東急も。
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もなかさんがファイト!と言っています。