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2016/09/23 08:23

一の谷古戦場

わたしは親になったことがないので

解らないけれど、一番の親不孝は

子供が親より先に死んでしまうことだと

聞いたことがある。


わたしは決して、親孝行者ではないけれど

『最大の親不孝』と言われることを

避けることができたのは良かったと思う。


☆彡☆彡☆彡☆彡☆彡☆彡☆彡☆彡☆彡☆彡


西暦1184年に摂津国(現・兵庫)福原及び須磨で

源氏と平家の有名な戦があったと伝わる場所。

現代では『一の谷の戦い』と伝わる古戦場。


たぶん、源義経の

「鹿も四つ足、馬も四つ足」と

逆落としで奇襲をかけた戦っていうイメージを

持つ人が多い気がする。


話を掘り下げると、源義経は

一の谷を攻め落としてはいるけれど

逆落としや奇襲攻撃を仕掛けたとは一切

書かれていないのだとか。。。


まあ、歴史は勝者が記すもの(笑)

脚色は当然あるものと見なすべきでしょう。

それはそれであえて否定するつもりもない。

源義経さんが英雄であることには変わりなし。


☆彡☆彡☆彡☆彡☆彡☆彡☆彡☆彡☆彡☆彡


一の谷でもう一つ有名なのは

『敦盛の最期』で知られる

平敦盛(たいらの あつもり)と

熊谷直実(くまがい なおざね)の物語。


須磨浦公園の隣に

敦盛の胴塚があり、なんとも

寂しげな雰囲気だった。


☆彡☆彡☆彡☆彡☆彡☆彡☆彡☆彡☆彡☆彡☆彡☆彡


合戦の一番乗りの功名を果たした直実は敵を探していると、

沖の船へ逃れようとする平氏の武者を見つけて

「返せ、返せ」と呼びかけた。


武者はこれに応じて、陸へ引きかえして直実と組むが、

勇士の直実にはとても敵わず、組み伏せられた。

直実は首を取ろうとするが、

武者の顔を見ると薄化粧をした美しい顔立ちの少年だった。


武者は清盛の弟経盛の子敦盛16歳と名乗った

(『源平盛衰記』による。『平家物語』では名乗らない)。


直実の息子直家も同じ16歳で、憐れに思い逃そうとするが、

他の源氏の武者が迫っており、

とうてい逃れることはできまいと泣く泣く敦盛を討ち取った。

直実は武家の無情を悟り、後に出家して高野山に登った。


☆彡☆彡☆彡☆彡☆彡☆彡☆彡☆彡☆彡☆彡☆彡☆彡☆彡


自分の息子と同じくらいの若者を斬るのに

どれほどの躊躇いがあったかが伝わるような話。

その後、熊谷直実は有名な法然の弟子となり

蓮生と名乗り出家をする。


贖罪の為に残りの生涯を捧げ

お経を唱え続け全国各地にお寺を建てたりと

足跡を遺した。


今もなお、熊谷市には

直実のブロンズ像が立ち、

全国各地には彼が開いたお寺が残っている。


また、この『平家物語』の名場面は、

のちに能『敦盛』、幸若舞『敦盛』、

文楽/歌舞伎『一谷嫩軍記』などの題材となった。


織田信長の好んだ歌

「人間五十年、下天のうちをくらぶれば、夢幻の如くなり。

一度生を享け滅せぬもののあるべきか 」は

幸若舞『敦盛』の一節。


すごく悲しい物語だけど

決して忘れてはいけない事実あったお話。

また悲劇を繰り返さないように

歌や言い伝えとして遺されているんだね。


源平合戦が今もなお

語られる理由が少しわかった気がする。

今度は須磨寺にも行ってみたいなあ♪

安徳天皇なんとかって場所もあったなぁ♪

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