756件のひとこと日記があります。
2019/10/30 22:00
『大仙陵古墳』仁徳天皇陵は日本の誇り☆
関ヶ原の戦いで有名な
“島津の退き口”
大まかなルートは
徳川家康本陣目掛けて突撃し
急遽右転して戦場を離脱。
難波津、堺から大阪湾、瀬戸内海を渡り
本拠の薩摩まで引き上げた
と言うもの。
この時に船頭をつとめて、
島津義弘公を無事にお届けした手柄で
『名字』を与えられた人物がいる。
その子孫が私にとって
従姉に当たる人のお婿さん。
聞き慣れない名字だったので
知的好奇心を抑えられず
聞いてみた答えがそれだった。
家伝みたいな形でも伝わっており
彼は家伝の如く堺出身で、
お父さんは確か鹿児島。
お婿さんはとっても優しくて
気さくな人で
現在はある大学の教授をやっていて
生徒に慕われてるって聞いてる。
何処とは言わないけど
Kyo大出身でもあり、
勉強でわからないとき
メールや電話で教えてもらうことも
多々ありw
「堺や鹿児島だったら案内できるからね!」
と
よく言ってもらっていた。
堺って何があるんですか?
『仁徳天皇陵です( ー`дー´)キリッ』
結局、堺に行ったのは
大人になってから。
早速名高い仁徳天皇陵に向かふ。
・・・も。
意味がわからない。
良さもわからない。
お墓だしね。
博物館みたいなところに
立ち寄ってみる。
ボランティアの人が
何か教えたそうにこちらを見てるw
じーっと見てる。。。
マカ「に、仁徳天皇陵のご説明をば
m(_ _)m 」
ボラ「発掘された器具や土器。
これが堺製だけでなく
全国津々浦々のものなんです。
これの意味がわかりますか?」
マカ「労働者が地方からの出稼ぎってこ
とですか?」
ボラ「そのとおーり!
つまり、奴隷につくらせたわけでなく、
公共事業として仕事を提供してた。
国が。」
マカ「ケインズ経済学なんですね♪」
ボラ「うむ」
仁徳天皇は竈の煙の伝説?
からもわかるように、
とても思いやりのある方だった
のだと思われる。
不況に苦しむ民のために
生前から自身の陵の建設を始め
その事業を続けることで
経済の活性化をすすめたのだとか。
エジプトのクフ王のピラミッドや
始皇帝陵をも上回る大きさ。
仁徳天皇陵は世界最大級の墳墓。
にも関わらず、
肝心の日本は関心無し。
堺市役所の展望台から見下ろすのが
仁徳天皇陵全体が一番見やすいかな?
近くだと意味がわからないw
この陵の本来の目的は、
古墳に本来、草木がなく
当時はピラミッドの様な見た目。
今みたいにもっさもっさしてない。
当時、海外の使者は大宰府を経て
瀬戸内海、大阪湾を通って
首都の飛鳥などに向かう。
(瀬戸内海航路)
仁徳時代の首都は難波。
いずれにしても、かならず
目にする事になる仁徳天皇陵。
要は、海外(特にチャイナ)の使者に
こんな大きな墳墓がある。
高度な文明がある。
高度な測量技術がある。
大和国侮りがたし。
との印象をもたせる為の
『プロジェクト』
だったのだとか。
実際に巨大な古墳を目にした使者は
「なんじゃこりゃぁーーΣ(゚Д゚)」
となったのは想像に難くない。
何しろ現代でも最大級の墳墓。
多分スカイツリーを真下から見るより
衝撃的だったに違いない。
歴史の授業で習うのは
遣唐使や魏志倭人伝などの
中国の属国的な習い方だけど
聖徳太子が「日出ずる処の天子〜」
と、隋に喧嘩を売ったように、
必ずしも中国以下の国と言う認識
では無く、
世界最高基準の文明や
世界最高基準の測量技術などがあった
有数の先進国だったのでは?
と思えてくる。
少なくとも自負している。
仁徳天皇陵には
蝮を使って代々陵を護る役目を
背負う多治比一族がいる。
多治比とは蝮の古名。
だから、
沢山の人に触れられることだけが
仁徳天皇の願いだとは
どうしても思えない。
世界遺産登録おめでとうとは
とても思えなかった。
でも、日本に生まれたなら
仁徳天皇陵の意味を知っておいて
損はない。
是非外国の知人などに
日本が世界に誇れるものです!
と紹介して欲しいです♪
改めて考えると
先日即位した今上天皇は
御名前が徳仁(なるひと)
『仁徳』の諡を考えたのは
淡海三船と言うお方。
貴方には抜群のセンスです。
と、私はお伝えしたい☆
-
マカさん
「花のようなる秀頼様を鬼のようなる真田が連れて退きも退いたり鹿児島へ」の時と同じルートですね☆