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2016/10/23 08:38
思い出の菊花賞
武邦彦氏追悼の時に触れた74年と並んで、忘れられない菊花賞といえば初めてテレビでリアルタイム観戦した70年。有力馬が秋緒戦を走ってから本番を迎えるまでの展開が、競馬を見始めたばかりの私にとっては刺激の強すぎる異例ずくめのもので、レースの内容、結果も含めて私の競馬の見方に大きな(変な)影響を与えてくれた。
異変は三冠がほぼ確実視されていたタニノムーティエが、秋緒戦の朝日チャレンジカップで勝馬から4秒以上話された最下位になったところから始まった。私はただ茫然とするばかりだったが、この時点で喘鳴症を患っていることは明らかにされていなかった。追い切りで喉が鳴っていたのだから陣営もマスコミも気づいていたはずだが、馬主もしくはJRAから箝口令が敷かれたのか、そもそも喘鳴症に対する知識がなかったのか、いずれにせよこの情報開示のあり方は今では考えられない。このあたりの真相を明かした書物があれば読んでみたい。
異変は続く。2週後の神戸杯(現神戸新聞杯)でもダービー2着馬ダテテンリュウがブービーから大差ちぎられたシンガリ。もしディーマジェスティとサトノダイヤモンドがそれぞれ秋初戦でドンジリになったらいかほどの騒ぎになるだろうか。46年前にそれが本当に起こったのだ。さらに春にタニノムーティエと人気を二分したアローエクスプレスが翌週のセントライト記念を感冒で出走を取り消すに至って菊戦線は無風一転、大混乱の戦国絵巻に姿を変えた。当時家で購読していた報知新聞があわてて(?)「乱菊を斬る」という連載を始めたのを覚えている。
上記3頭は京都杯(現京都新聞杯)で顔を揃え、アロー2着、ダテ4着、ムーティエ6着。このあたり私の記憶は曖昧だが、ムーティエの喘鳴症はこのレース後に公になったとある。ムーティエがここでも1番人気だったということは、マスコミは「叩きニ走目のここは変わり身がある」と報じ、ファンもそう思ったということだろう。
そして迎えた本番。後日書かれたものを見るとオーナーはレース前に思い出づくりの出走だと明言しており、出すべきではないとの声も多かったとあるが、当時の私の情報源(関テレ、KBSのテレビ中継と報知新聞)ではそこまではわからず、「一縷の望みを託しての出走」を見守るしかなかった。
緒戦大敗から立て直し優勝に導いたダテテンリュウ陣営の手腕は見事だった。一方アローエクスプレスは9着、タニノムーティエ11着。半年前に競馬ファンを熱狂させた両雄はそれぞれ見せ場はあったものの惨敗を喫した。ムーティエには喘鳴症、アローには血統的距離不安と、仕方のない面はあったものの、ビギナーの私には競走馬が夏を越すことの難しさ、菊花賞というレース(およびそこへ至るまでの道程)の過酷さばかりが脳裏に刻み込まれることになり、おかげで私は以後菊花賞を一種「神聖視」するようになってしまった。一番最初にこんなレースを体験してしまったのは競馬ファンとしてよかったのか、悪かったのか…。