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2016/12/11 08:06
思い出の阪神JF(…の前身)
JRAによると今年の阪神JFは第68回だそうで。JRAがそう言い張るのなら思い出のレースも過去67回から選ばせていただきましょう。
初めてリアルタイムで見た旧3歳王者がロングワンだったのは「思い出のダービー」で書いたが、その翌年1971年の阪神3歳Sは名門・伊藤修司厩舎が送り出すヒデハヤテ一色で、実際レースも福永洋一を背に後続に影も踏ませぬ8馬身差の圧勝。タイムも破格の1分35秒1で「クラシックの主役は決まった」とささやかれた。
だが私が注目していたのははるか後方で2着争いをしていた牝馬・シンモエダケだった。
所属する田之上勲厩舎は60年代から夏村、柳田厩舎とともに「小倉御三家」と呼ばれ、九州産馬の振興に心血を注ぐなど、ローカルを主戦場とする地味な厩舎だったが、私はこの厩舎のファンになり定年で解散する92年2月まで所属馬を追いかけ続け、ゆかりの血統は今も応援している。
周囲からはよく「何で田之上厩舎?」と聞かれたが、きっかけは71年夏の小倉開幕直前のシンモエダケが取り上げられていた新聞記事で、開幕するとシンモエダケを初めとする所属の旧3歳馬が次々と勝ち上がったことで興味が湧き、以後追いかけることになったのである。
ちなみに私のHN「にるきんぐ」も同厩舎所属馬の名前をいただいている。
シンモエダケは6戦4勝で迎えた阪神3歳Sで2着となって桜花賞候補の地位を確立した後もレースに出続けた。年明けのシンザン記念では後にNHK杯を勝つ牡馬ランドジャガーを競り落とし重賞初制覇。トライアルの阪神4歳牝馬特別も制して13戦8勝とし、流感の影響で大幅に日程がずれ5月21日の施行となった桜花賞を断然の1番人気で迎えた。しかしいつもの鋭い末脚を発揮できず7着。勝ったのはトライアルで権利を取ってすべり込んだキャリア16戦目の僚馬アチーブスターだった。シンモエダケはオークストライアルでも7着と敗れ本番を断念。一冠も取れず失意のうちに休養に入った。捲土重来を期したビクトリアCも3着が精一杯で同レースを制したアチーブスターとは評価が逆転。その後も出走を続けたが成績は右肩下がりで、結局旧4歳春の輝きは取り戻せないまま繁殖入りした。
シンモエダケのローテーションについては当時から「使いすぎ」の声はあったと記憶している。使い詰めの影響で肝心の本番では調子落ちしていた可能性は否定できない。
しかし田之上厩舎(に限らず当時の中堅厩舎の多く)はレースを使って調子を上げ、好調を維持するスタイルを取っており、(馬主の意向もあっただろうが)クラシック候補を管理しているからといってよそ行きのローテを選択せず、自己の流儀のローテを貫いたことはある意味潔いとも言える。
今はクラシック候補が出走に必要な賞金を確保した後も月1で出走し続けることはまずない。これを否定するつもりはない。ただ、1戦しては放牧→出走→また放牧のパターンが標準化してしまっているのはどうかと思う。たまには使って、使って鍛え上げ、過保護ローテ馬を蹴散らす存在が出てこないかと思う今日この頃である。でも今それをやるとサンエイサンキューとかの例を出して「鬼畜馬主」「そんなに金が欲しいか」と叩かれるんだろうなあ…。