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2017/05/21 11:44
思い出のオークス2
かつて関西では内田恵司・敦子夫妻の所有馬が「ケイ」の冠号で多数走っていた。
内田恵司氏は医師で、福永洋一騎手が毎日杯で落馬し騎手生命を絶たれる重傷を負った時、同レースに持ち馬を出走させていた内田氏が当直医師とともに救命措置を施したことはよく知られている。
私が競馬を見始めたころはすでにケイタカシなど複数の馬がオープンで活躍していたが、強く意識したのはケイサンタ、ケイシュウが当時としては珍しかったオープン級の小倉への直前輸送で臨んだことが話題を呼んだ71年の小倉記念だったと記憶している。
余談だがケイサンタ、ケイシュウをはじめ「ケイ」の馬のほとんどを管理していた浅見国一師は他にもヤマニンバリメラ99戦とかヤマニンミノル8連闘とかエアロフォーム勝負服とか人のやらないことをやり続けたユニークな人だった。
「ケイ」の馬で唯一大レースを勝ったのが1980年のオークス馬ケイキロクだった。もちろん浅見師が管理していた。
桜花賞馬ハギノトップレディに重馬場と距離不安の二重苦がつきまとい、各陣営「我に勝算あり」と色めき立つ中、テン乗りの岡部騎手を鞍上に各馬が苦しむ重馬場の内目をスルスルと抜けて5馬身差の圧勝だった。人気馬が総崩れで関西のダークホースが3着まで独占(しかも着差がバラバラ)したせいか、この年は過去のオークスの中でも後年語られる機会が少ないのが残念である。
ケイキロクの母は73年のオークスでシンガリ22着に敗れたケイスパーコ。ケイスパーコは後にCBC賞(1400m)を勝つ優れたスプリンターだったが、リボー系のラディガを配して生まれたケイキロクは母が大敗した舞台で大仕事をやってのけた。
内田氏の名前は90年代初頭に馬主欄から消えた。
70年代初頭から競馬ファンとしてのキャリアを大手の個人オーナーの馬(ホウシュウ、二ホンピロ、ロング、マルブツ、ランド、ケイ等)とともに過ごしてきた私にとっては、内田氏と浅見師のように、個人オーナーと調教師、騎手が強く結びついた関係がほとんど見られなくなったのは非常にさびしい。
今年のオークスは、応援していながら桜花賞では見切ってしまったレーヌミノルを罪滅ぼしの意味でも買って観戦しよう。
BGM:Sweet People“Nuit Blanches”