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2017/06/10 01:57

上野清章騎手

上野清章騎手は1969年にデビュー。1974年途中から伊藤修司厩舎所属となり、翌年「伊藤」姓に改姓。84年にフリーとなり、87年に「上野」姓に戻る。98年引退。通算561勝(平地537、障害24)。重賞32勝。うち27勝は伊藤修司厩舎の所属馬であげた。

上野騎手は25歳で伊藤修司師の娘婿となり、以後主戦として厩舎の有力馬に乗り続けたが、個人的には特に違和感はなかったし、「なぜ上野を乗せるのか」という批判の声が大きかったという記憶もない。
この時代(70年代)、特に関西では
ヒカルイマイ=田島良保
タニノチカラ=田島日出雄
テンポイント鹿戸明
のように
実績のない若手や中堅の所属騎手が乗って出世した馬が大レースに出走することになっても、乗り替わらずそのまま送り出されることがよくあった(それを90年代まで貫いたのが戸山師)。それだけ厩舎と騎手のつながりが深い時代であり、上野騎手が所属厩舎の期待馬に乗るのは不思議でもなんでもなかった。73年までは福永洋一、武邦彦、久保敏文らに騎乗を依頼していた伊藤修司師が、上野騎手が所属になると一貫して看板馬に乗せ続けたことは、親バカもあるのだろうが個人的にはあっぱれをあげたい。

では上野騎手の騎乗技術はどうだったのか。
まともな「騎手 上野清章論」にはお目にかかったことがないが、未読だが小林常浩氏の騎手との対談集に上野騎手の項があり、タイトルが「勝てば馬、負ければ騎手」。自虐ややるせない思いも含まれているのだろうが、失礼ながら言い得て妙ではある。これが一般的な評価なのだろう。
ただリアルタイムで見た者としては「わからない」が正直なところである。個人的にはハギノトップレディのエリザベス女王杯や、ハギノカムイオータケノコマヨシの京都新聞杯などはうまく乗ったなー、という印象がある。大橋巨泉氏がバンブトンコートの鞍上変更を再三提言していたというのは、当時全く知らなかった。玄人が見れば上野騎手の騎乗技術は心もとなかったのかもしれないが、正直バンブトンコートが大レースを勝てないのは騎手のせいと思ったことは一度もなかった。

この頃は現在のようにレースのリプレイが簡単に見られて、ネット上でファンによる容赦ない騎手批判が繰り広げられたりすることもなかったし、騎手の個々の騎乗へのネガティブな批評を目にすること自体が稀だった。個人的にも70年代は悪友たちとの会話の中で特定の騎手の騎乗を批判した記憶はない。せいぜい「池上はなぜ逃げたのかね」「加賀のあれは進路妨害じゃないの?」くらいか。そういう時代だったのだ。

私は上野騎手のファンでもアンチでもなかったが、少なくとも私にとって上野騎手は「勝てば馬、負ければ騎手」という存在でなかったことは確かである。

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