1980件のひとこと日記があります。
2016/08/18 17:17
夏休みの授業53
大政奉還を告げた徳川慶喜は、大阪城へ去った。しかし、大政奉還をよしとしない会津藩や新撰組は、あくまでも幕府存続を主張。京都南の鳥羽伏見で新政府軍と衝突。戊辰戦争の第1ラウンドであった。この時、岩倉が考案したのが「錦の御旗」(皇室を表す菊の紋章がついた旗)だった。この旗に逆らう者は逆賊であると。これに幕府側は大敗。生き残りが大阪城にたどり着いた時には、すでに徳川慶喜は船で江戸へ向かっていた。ありがとうございました。
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裕子さんがいいね!と言っています。
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ダビスタ牧場厩務員さんがいいね!と言っています。
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年一さんがいいね!と言っています。
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†KAI†さんがいいね!と言っています。
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まぁ大将が逃げたらあかんwたとえ崇高な理想があったとしても。
薩長は関ケ原でのリベンジマッチですからね坂本龍馬の考え方には賛同しないでしょうし、あと岩倉はある意味大戦犯、天皇を前面に出せば国内の政敵のみ、沈黙するという前例を作ってしまった。これが後々統帥権問題で旧日本軍の軍部止めれずアメリカとやりあう羽目(まぁハルノートなんて突き付けられてはやむなしだが)になった。 -
一直線さん
長岡出身の知人が言ってました。
「やっぱり薩摩が嫌い」。 -
大政奉還後、新政府の閣議に慶喜を入れる入れないで土佐VS長州・薩摩の攻防が始まる、竜馬も慶喜を新政府の一員に入れると八策後に書いた人事にも書いていた。が薩摩・長州はあくまでも裏では幕府倒幕を諦めていなく、幕軍を挑発、慶喜は抑えるも、抑えきれず挑発に乗ってしまう。倒幕にどこまでの意味があったのか、長州の思いを晴らすためか、どちらにしても悲しい戦いは始まる(;>_
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父カネツクロス・・見たかった!さんがいいね!と言っています。