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2021/05/02 22:36
メモ-天皇賞にまつわる「7つの秘密」勝ち抜け制「盾」と呼ばれる理由,戦前事情等
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数あるG1レースのなかでも、長い歴史を誇るのが天皇賞であり、最高峰の伝統を持つ故に、ベテラン競馬ファンでも知らない“秘密”が散りばめられている。例えば、天皇賞のことを「盾」と呼ぶのは何故か。春も秋も、天皇賞を制した騎手を「盾男」と呼ぶように、天皇賞の代名詞でもある「盾」というワード。その由来は、表彰式で馬主に下賜(かし:身分の高い人から、くださること)される天皇盾にある。
実は日本国内レースのなかでも、馬主に直接、手渡しで盾が渡されるレースは、春と秋の天皇賞だけ。天皇賞が「盾」とよばれる“秘密”はここにあった。さらにこの盾にも”秘密”がある。
これが2つ目。ほかのレースでは手にすることはできない盾であり、元をたどれば天皇陛下から賜(たまわ)った貴重な品物。通常は天皇賞が行われる東京・京都の競馬場で交互に保管されているという。万が一、失くしたら保険が適用されないことから、外部業者に輸送を任せず、JRAの職員が複数人で運ぶとのこと。あまりにも由緒ある貴重な盾なので、表彰式ではこの盾を素手であつかうことは許されず、必ず白い手袋をして手渡する。ちなみに優勝馬主には後日、レプリカが届けられる。
知られざる3つ目の“秘密”は、天皇賞の起源について。
日本競馬界屈指の歴史を誇る天皇賞のルーツは、今から100年以上前の明治時代までさかのぼる。1905年創設のThe Emperor’s Cup(エンペラーズカップ)がその起源で、当時は全国の競馬場で年に10回も開催されていたというから面白い。その後、昭和時代には「帝室御賞典」と名を変えた同レースは、優勝馬の関係者に盾ではなく、花を飾る豪華な「華盛鉢」や「華盛器」などが下賜された。しかし第二次世界大戦に突入すると、日本の国勢は悪化。豪華賞品の資源となる金や銀が不足すると同時に、天皇陛下ら皇族の地位も危ぶまれる状況となった。その影響か、終戦後の1947年には「平和賞」と名称を変えて施行され、春の開催では下賜された品物は無かったという“秘密”記録が残っている。
天皇陛下と天皇賞といえば、平成時代に「天覧競馬」は2度実現している。
ともに秋の天皇賞だが、2005年は14番人気のヘヴンリーロマンスで優勝した松永幹夫調教師(当時騎手)が、ヘルメットを抱えて馬上から最敬礼。2012年にエイシンフラッシュで勝利したM.デムーロ騎手は、ウイニングラン後に下馬。芝コースから貴賓席に向かって、ひざまずいて一礼したシーンを覚えている競馬ファンも多いだろう。
さらに競馬観戦に訪れられた天皇陛下ら皇族と競馬との結びつきは、想像以上に深かった。はるか昔の奈良時代後期にまとめられた「続日本紀」には、大宝元年にあたる西暦701年5月5日に、文武天皇が「走馬」をご覧になられたという“秘密”記録が残っている。大宝時代以降も、この「走馬」は「競馬(くらべうま)」と詠(うた)われるなど、数多くの書物に記されており、天皇賞のルーツを調べる途中で、競馬の語源は今から1,300年以上も前に存在していたという予想外の“秘密”も明らかになった。
最後の7つ目の“秘密”として紹介したいのが、今では考えられない昔の天皇賞のルールについて。実は昔の天皇賞は勝ち抜き制で、春でも秋でも一度優勝すると再び天皇賞には出走できないというルールがあった。これは前出の「帝室御賞典」の時代から、意外と最近の1980年秋まで存在していた独自ルール。日本競馬界の最高位レースであり一度でも天皇盾を手にした馬は、二度と天皇賞で走ることは許されなかった時代があったのだ。
大相撲の世界では、最高位の横綱に昇進した後は、弱くなればただ引退するのみ…というルールがある。競馬界と世界は異なるものの、天皇賞優勝馬と横綱は同レベルであり、一度でもその道を極めたら、あとは去るのみということか。いずれにせよ、予期せぬ非常事態宣言によって2年連続で無観客競馬での開催となってしまった春の天皇賞。古くは明治時代から、昭和時代の戦後の苦難を乗り越えて、現代へと襷(たすき)を繋いできた伝統の一戦でもある。
現代に生きる我々競馬ファンとしてその襷を絶やすことなく、しっかりとゴールまで見守りたい
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他1984年JRAグレード制導入による天皇賞秋<府中>の3200m→2000Mに距離短縮という出来事も…
※GJ