590件のひとこと日記があります。
2017/05/10 17:50
スナック・パドック「ヴィクトリアマイル」レース前
「この時期、フケには気を付けないとな」
マスターが洗い物をしながらカウンター越しにポツリとそう言った。
「えっ、きょうに限って黒いシャツ着て来ちゃったからなぁ」
とケンちゃんはイスから立ち上がって盛んに肩のあたりを手で払って何かを
落とそうとしている。
「そのフケじゃねぇよ」マスターは呆れている。
「じゃぁどのフケさ」ケンちゃんは怪訝な顔をした。
「牝馬の発情期のことを言うんだよ」
オレがジャックダニエルをチビリとやってそう教えると、
「えっ!そうなの?牝の馬っ気かい?」ケンちゃんは目を丸くしている。
「馬っ気は知ってんのか」マスターは驚いてみせる。
「知ってるさ、男だからね」ケンちゃんは胸を張る。
「パドックで馬っ気みせたから切ったら、楽勝したヤツがいたからな」
マスターは苦い経験を持っている。
「普通、集中出来てない、とか言ってパドック解説でも良くは言わないよな」
オレもそんな解説を聞いたことがあった。
「元気がある、ってコトですよ」ケンちゃんは嬉しそうだ。
「お前も街を女の子見ちゃぁブラブラさせて歩いてるんじゃねぇのか、ん?」
マスターは洗っているお玉をクルクル回してケンちゃんの目の前に出した。
「冷たいよ!濡れてんじゃんそれ」
ケンちゃんは今度はシャツの前を手で払って水を落とすコトになった。
「よっ!水も滴るいい男!よっ!」
マスターは徹底的にからかう。そして、
「牝馬のそれはいつもの走りが出来なくなるらしいからな」と続けた。
「あればっかりは見分けがつかないから、出て来たらお手上げだな」
とオレも両手広げて万歳ポーズを作って見せた。
毎年3月から7月半ばくらいにかけて、やって来るものらしい。
18日から23日周期で4日〜7日は続くらしい。
パドックでの見分け方としては、やたらと尻尾を振るという。
虫などを追い払うときは力が入るが、このときは優しくフワッと動かすらしい。
尻ッ跳ねをする馬には尻尾にヒモなんかを結んで注意を促すように
フケの馬には尻尾に白いスプレーをサッと掛けて目印をして欲しい。
「それって人間の髪の毛のフケと掛けてるんでしょ」
ケンちゃんはそういうところの発想には鋭いところがある。図星だ。
「そうなんだ、フケって言うの」桃ちゃんも初耳のようだ。
「何か汚らしいわね」少し気に入らない様子だ。
「だって汚いんでしょ、あれって」ケンちゃんは自然とニンマリ笑う。
「汚い?卵子の成れの果てよ!あんたにだってその一部は入ってるんだからね」
桃ちゃんは勢い良く生ビールを煽った。
「薬で時期をズラすことが出来るらしいぞ」オレがそう教えると、
「強い薬なのかしら、副作用が心配だわ」
桃ちゃんもたまには優しいコトを言う。
「じゃぁレース前に薬で終わらせてスッキリさせるのがいいんじゃない?」
ケンちゃんがもっともらしいコトを言うがそれは所詮無理な話だろう。
「ダメよ。レースが終わってから来るようにしないと...ダメ」
珍しく桃ちゃんが乙女の恥じらいのようなものを見せた。
「女の桃さんが言うんだから、そうなんだよな、きっと」
ケンちゃんは頬をほんのり赤く染めた桃ちゃんを初めて見た。
「とにかく女の戦いは面倒くさいもんだよな」マスターが桃ちゃんの生ビール
のお代わりをカウンターにトンと置いた。
「なるべく薬は使わないで欲しいな」桃ちゃんの提案だ。そして、
「フケだろうが何だろうが走ったらみんな忘れて夢中で走ってもらわないとね」
「がんばれ!みんな!」出走する牝馬たちにエールを送った。
出走して来る牝馬たちのどの馬がフケでどの馬が普通の状態なのかはオレたち
素人には皆目見当がつかない。
「よしっ!パドックで尻尾の動きをしっかり見て判断するぞ!」
ケンちゃんは気合が入っている。
「じゃぁきょうはこれで帰るわね」と桃ちゃんが店を出て行った。
その後ろ姿を見たケンちゃん「あれはフケだね」そう言ってケラケラと笑った。
「腰の振り方がセクシーで柔らかく振っていたから」
というのがケンちゃんの見解である。
「追いかけて聞いて来いよ」マスターが突っ込むと
「絶対、無理!殺される!」
ケンちゃんには目視でフケを言い当てる才能は無いのだろう。
と言うよりもある訳が無いのである...。