590件のひとこと日記があります。
2017/10/23 21:42
スナック・パドック 「コーチ屋」
「お前、記憶力はいい方か?」マスターがケンちゃんに聞く。
「いい方なんじゃないっすか。一昨日の晩御飯のおかずは言えますよ」ケンちゃんは即答である。
「じゃぁ一昨日の晩御飯のおかずは何だったんだ?」マスターはすかさず聞く。
「カップラーメンっすよ」とケンちゃん。「何だよ、それ」マスターは呆れてものが言えない状態である。
「コーチ屋って知ってるか?」マスターがケンちゃんに聞く。
「コーチって言うんだから、指導するんすか?」ケンちゃんは野球の世界をダブらせている。
「当たり目を教えるんだよ」マスターはそう説明した。
「それ予想屋でしょ」ケンちゃんは水道橋の場外で何度か目にしたことがあった。
「予想屋は紙に当たり目を書いて売る商売だろ」マスターの説明に熱がこもって来た。
「えっ?どうやって金にするんっすか?」ケンちゃんは大いに疑問に思った。
予想屋という商売は、集まったお客さんに向かって自分の競馬観やレース展開などを語って、支持を集め、その
先を知りたいという客にレースごとの予想を書いた紙を渡してお金をいただくというもの。1レース100円という
手ごろな金額であることから人気のある予想屋の周辺には結構人だかりがあったものだ。そして、きょう話題に
なっているコーチ屋である。この人たちは、パドックを観ている人やカップのビールを片手に歩いている人など
に向かって次のレースの予想を勝手に耳元で囁くのである。「次の5Rは、1−2・1−3・2−3だよ」と
当たり目を教える。そして、次の人には「次の5Rは、3−4・3−5・4−5だよ」と当たり目を教えるので
ある。ポイントは教える人ごとに当たり目を変えることである。そうすれば、どれかは当たる、というからくり
であるから回収率は結構高いのである。がしかし、ここで問題になるのは記憶力である。どの人にどの当たり目
をコーチしたのかを覚えていなければならないのである。そして、レースが終わって確定すると、コーチした人
のところへ素早く走り、その人を捕まえて「当たったでしょ」と言って掌をその人の前に差し出すのである。
「おお!サンキュー、サンキュー!」と言って配当の10%でも差し出してくれれば商売が成立するのだ。がしか
し、多くの対象者は「買ってないよ」「覚えてないよ」とコーチ屋の意図と思いが合致しない。そこで、コーチ
屋の適性として最も必要なことは「教えてやったろうが〜〜!」という叫び声に見合った面構えを持っているこ
ととなる。それによって回収率は大きく変化するのは必至である。
「凄い商売があったもんっすね」ケンちゃんは驚きの表情である。
「コーチ屋と目を合わせたら最後だよな」マスターはその凄さを聞いている。
「でも、外れの目を教えられた場合は来ない訳でしょ」ケンちゃんはサラリと言う。
「お前なんかが目を付けられたら当たり目なんか関係なく来るぞ、きっと」マスターの手がお化けの形になる。
「ヤめてよ。何で俺が狙われなきゃならないんすか」ケンちゃんは少し動揺した。
「しかし、競馬場のあの人込みの中でコーチ屋をやるのは大変だろうな」マスターはコーチ屋の苦労を思う。
「土曜日っすね、狙いは。程良い人混みでないと商売にならないでしょ」ケンちゃんの土曜日は仕事である。
「コーチ屋なんて古き良き時代の置き土産みたいなもんだろ」オレもそんな商売があったことは聞いている。
「まっ、予想屋に成れなかったヤツが無理矢理商売として考えた方法なんだろうな」マスターがそう言うと
「今は馬券の種類が増えたからコーチ屋も大変っすよね」と言ってケンちゃんはグラスのビールを煽る。
「俺がケン坊にコーチするか?」マスターから新提案が出た。
「えっ!えっ?何?マスターが?」ケンちゃんは驚きの表情を見せる。
「最近のマスターの予想は鋭いから良い提案じゃないか」オレはすっかり他人事なのでどこ吹く風である。
「だっていつもマスターの予想は聞かされてるじゃないっすか」ケンちゃんは大いに困った顔になる。
「その予想が当たったら1割でもお礼をいただければ幸いっす」マスターはケンちゃん口調でそう返す。
「まっ、このスナックそのものがコーチ屋みたいなもんだからな」オレはそう言って改めて店の中を見回した。