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2018/09/30 17:15
武豊騎手 JRA4000勝の金字塔
【歴代担当記者 ちょっといい話1】
《原宜巳(たかし) 88年〜90年》
デビュー当時から、ユタカ君は少し違った雰囲気がありました。幼い頃のニックネームが『ニコちゃん』だったぐらいで普段はニコニコしていましたが、芯の強さや内に秘めたものを感じましたね。
彼がどんどん勝ち、早くもスターになっていたデビュー2年目に、日刊スポーツで『武豊ウォッチング』というコラムを連載することになり、私が担当を命じられました。思い出は89年、初のアメリカ遠征に同行した時のことです。アクシデント続きで本当に大変な旅でしたが、一つ勝手くれた時は報われた気持ちになりました。
記者としてユタカ君に助けてもらったことも多くありました。最初、オグリキャップはユタカ君にとってむしろライバル的な存在でしたが、90年安田記念で彼に騎乗依頼がきたのです。ですが、ちょっとした事情で日刊スポーツだけ、その衝撃的なニュースを知りませんでした。世紀の"特落ち"になっていたところですが、ユタカ君が栗東の記者席に来て私を呼び出し、その話を伝えてくれました。慌てて原稿を書いた後、私は冷や汗をかくとともに彼に深く感謝したものです。
私ごとですが、今年の夏に男子の初孫が生まれました。生んだ長女は、ユタカ君がシャダイカグラで初めて桜花賞を勝った週の追い切りの日に生まれました。翌日、ユタカ君が「カグラちゃんという名前で決まりですね」と言って祝ってくれたのを覚えています。孫が生まれた時、あの時のことを思い出しました。
ユタカ君は私にとって青春時代の宝物みたいなもので、JRA4000勝達成は、今年還暦を迎える私もお祝いをもらったような気分です。今は彼が元気に乗っている姿を見ているだけで感激します。これからも末永く活躍してほしいと願っています。
《中村基也 93年〜》
「乗るからには全部勝ちたいけど、あれは格別やったね」。何本、ワインが空いただろうか。競馬談議になった京都の夜。武豊がそう語ったレースがある。
デビュー12年目、スペシャルウィークで挑んだ98年ダービー。幾多のG1を勝ち、リーディングを取り続けても、どうしても勝てないレース。当時、競馬界の七不思議と言われ、レース前はピリピリしていた事を思い出す。しかし、中団後方で折り合うと、直線は独壇場。ためた末脚を一気に引き出した。「思わず、ね。自分でビデオ見返しても恥ずかしい」。僕も武豊がゴール後に、あれほどガッツポーズを繰り返したレースを見たことがない。
その後、ダービー5勝、年間200勝を3度も達成し、勝ち星は加速。ダービージョッキーの称号を携えて、さらに積極的に海外にも出て行った。「ダービーを勝っていると勝っていないでは、世界の見る目が全然違う」。大きな大きな4000分の1勝だった。