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2019/05/06 01:14
転生
魂が永遠の存在で、肉体は転生を繰り返すものならば、魂は多種多様な人種・性別・社会的地位・経済的地位・時代・境遇を選択することだろう。毎回同様の設定の人生には、飽き飽きするはずである。魂が自分を不死の存在と知っているならば、肉体的生は、魂にとって慰めごとでしかない。退屈を避けるため、様々な肉体的生を体験しようとするはずである。
もし、このサイクルが真実であり、我々がこれを真実と受け取るならば、我々の生き方とは、これまでの物質主義的なものではなくなるだろう。行き着くのは老子の教えである。
あるがままを楽しみ、周囲に左右されることもないだろう。自分であることを『良し』とし、自分以外になろうとはしないだろう。周囲と比較することを止め、争うことを止め、今世の境遇を受け入れ、他者との違いを楽しむはずである。他者に干渉することなく、他者を説得することなく、征服することもないだろう。
なぜなら、魂にとっては、今世の自分であることが目的であるからである。慰めごとのために、わざわざ選んだ境遇に浸ることが、魂にとっては楽しみとも言えるわけである。転生の過程で、大金持ちになったり、王族になったり、戦士になったり、物質的に満たされた境遇もあったことだろう。しかし、『ステーキ』だけを人は食べ続けることは出来ない。
老子の『足るを知る』の言葉の意味は、このようなことではなかろうか。また、このことは、松尾芭蕉の生き様にも相通ずるものがある。有名になることや、野心に燃えることが人生の目的ではない。転生の立場を採るならば、毎回の生とは、魂が選択したベストであり、置かれた境遇をあるがままに享受することこそが、我々の目的なのだと言うことが出来る。