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2014/02/19 20:54

価値を見出すということ(仮)

友人がパズドラに嵌った。
課金もしているようだ。

正直な話、私は携帯ゲームに課金する人の気持ちが分からない。
画面の中だけで効果を発揮するアイテムなんかに1円たりとも使いたくないと思っている。

しかし、よく考えてみると、世の中の多くの人が「本来価値の無いもの」を大切にした経験があるのではないかと思う。
例えば、誰でも幼い頃はカードやシールを集めたりしたものだろう。
夢の無い話になるが、カードやシールなんてどこかの工場で大量生産されている訳だから、原価は恐ろしく安いはずだ。
偽装防止の工夫を山のように詰め込んだ紙幣を作るのにだって、1枚辺り10円くらいしかかからない。
カードやシールを作るのは、タダみたいなものだろう。

子供の頃は、「レアカードだ!」「光っているシールだ!」等と強烈な価値を感じたものでも、成長するにつれ「価値の無さ」を理解し始め、徐々に興味を失っていく。

嫌な言い方になるが、カードやシールは本来価値の無いもの(=原価的な意味合いで価値が薄いもの)に価値を付ける事で成り立っている商売と言えるだろう。
冒頭で挙げた「携帯ゲーム内のアイテム」も、この商売と同じ理屈だろう。

ここまで読むと、「価値の無いものに熱中するなんて……」とネガティヴな印象を受けるが、それも少し違う。
最近になって、私は考えが変わり始めた。
というよりも、「あること」に気付いたと言った方が正しいだろう。
その「あること」とは、世の中は「ある視点から見た時に価値の分からないもの」に溢れているということだ。


サッカーに興味の無い人は、サッカーの価値が分からない。
「大の大人が1つのボールを追い駆ける意味が分からない」くらいに思っているかもしれない。

ボクシングに興味の無い人は、ボクシングの価値が分からない。
「殴り合い?痛そう。何が楽しいの?やめれば?」くらいに思っているかもしれない。

将棋に興味の無い人は、将棋の価値が分からない。
「ルールややこしくて分かりにくい」との印象を受けるだけかもしれない。

競馬に興味の無い人は、競馬の価値が分からない。
「馬走らせて何が楽しいの。ギャンブルでしょ?」くらいにしか思っていないかもしれない。


上に挙げた4つのスポーツ・競技に共通することがある。
それは、「生産性の無さ」だ。

生産性の有ること、例えば、世の中を便利にするもの(スマホ、テレビ、ネット等)を作ったり、人の命を救う細胞を発見したり、生活を支える製品を開発したり、書類を仕上げたり……世の中が成り立つ・向上する上で直接的に必要なものだろう。

そういった「生産性のあること(世の中が成り立つ・向上する上で直接的に必要なもの)」に比べ、スポーツ・競技は、間接的にしか生産性を生み出さない。
「間接的に」というのは、
スポーツを見て感動する

元気を貰う、気持ちが豊かになる(感情的にプラスの作用が生じる)

仕事・作業を頑張ろうと思う(生産性のあることに向けて頑張る)
という構造を指してのものだ。


少々強引だが、スポーツ・競技も、カードやシールと同じく、それ自体に価値が有るとは言い難いものだ。
スポーツ・競技の「していること」だけを考えたとき。
どこに生産性があるだろうか。

サッカーなら、「ボールを蹴ってゴールに入れる」
競馬なら、「馬を競わせて先着する」

それ自体に、それ以上の意味は無い。


では、スポーツ・競技のどこに価値があるのか。
それは先ほど、「間接的に生産性を生み出す構造」で指摘した、「感情的にプラスの作用が生じる」という点だ。

サッカーで日本のチームがゴールを決める瞬間は、思わずガッツポーズをしてしまうし、競馬でオルフェーヴルの圧勝劇を見た日には、「良いものを見たなあ」と余韻に浸ったものだ。
スポーツ・競技には、人の感情を突き動かす力がある。
それが、何より価値のあることだと思う。

思えば、カードやシール・携帯ゲーム内のアイテムだって、人の感情を動かすかもしれない。
感情を動かさないにしても、充実した休息を得る上で必要だという人がいるかもしれない。
幼い頃にカードやシールで遊んだ時の楽しさは、人生において価値のあることだと思う。
一見すると価値が無いように感じるものでも、当人には価値があるのだ。

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