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アラブと福山競馬時々馬術競技さん

98件のひとこと日記があります。

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2013/07/23 22:52

投稿コラムのミス

昨日、名装蹄師の福永守氏がお亡くなりになりました。
近年はほとんど表立って動いていなかった(実際はそうではない)ので知らない方も多いかもしれない。
今回はそんな氏の様々な伝説を箇条書きながら紹介したい。

・平成4年の段階で現代の名工の称号を得たのは競馬会で福永守氏のみ(たぶん今でも)
タヤスツヨシが屈腱炎で引退後、北海道に帰る前に福永氏の装蹄を受けるためだけに広島へ迂回して北海道へ。
・自分に合った蹄刀類を自分で作るためだけに刀鍛冶屋に弟子入りした。
・若かりし頃はまだ日本に装蹄の技術があまり広まっていなかったため、屠殺場に入り浸り馬の体の構造(筋肉血管や腱の仕組みなど)を研究し尽くした。
・結婚して間もない頃は自宅の小屋に馬の脚数十本ぎっしり並べ、それぞれの脚に合った装蹄の研究をしていた。
・脚は腐ってくるため、妻は防ぐために脚の表面を焼いて腐敗を防いでいた。
・昭和35年の東京ダービー(当時の名称は春の鞍)を勝つセイショウは蹄骨を骨折し屠殺寸前のところを福永氏の研究材料として助けられ、万全の装蹄を施し福山競馬場でデビューさせた。
・デビューから圧勝を繰り返し、自身のレコードを更に更新する圧倒的強さで勝ちまくり南関東に移籍した後に18連勝目で上記のレースを制する。
・自分の装蹄を担当する馬を管理する調教師に「当てエビ」と言われるも納得できず、本当に当てエビでこうなるのかと別の馬の脚を棒で強く殴り同様の症状が出てくるか経過観察した(結果当てエビでないことが分かり、専門書に記載されていた当時の常識が覆された)

まだありますが、とりあえずここまで。
ちなみに上述した情報のソースは96年の競馬王からです。


この福山から南関東へ移籍し、18連勝で春の鞍を勝ったという記述、これは完全に誤りです。
情報源の読み違いです。

正しくは、「春の鞍に勝ったセイショウが蹄骨骨折して屠殺寸前のところを福永氏が研究材料として引き取り万全の装蹄をした結果、レースに復帰できるまでには回復し、福山で走らせてみたところ初戦から圧勝。連勝に連勝を繰り返し、自身のレコードを更に更新し続け、64キロの負担重量を背負いながらも更新した。最終的に連勝は18連勝まで伸びた。」です。
自分のユーザーネームに福山競馬とつけているにも関わらず、セイショウの事は知らなかったです。
昭和35年に引き取ったそうなので、1960年のこと。この頃はまだ福山のみならず、後にアラブのメッカを自称した園田でもサラブレッドが走ってた頃ですね。
この頃のお話を聞いてみたいものです。

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  • アラブと福山競馬時々馬術競技さん

    半身不随で寝たきりと聞いていたので、福山競馬の最終日に来場していたと聞いて驚きました。

    2013/07/23 23:26 ブロック

  • いわぽんさん

    福永先生の話は、やまさき拓未さんの漫画で読みました。幾多の馬が助けられたことでしょう。
    福山が廃止された年に亡くなるとは…。ご冥福をお祈りいたします。

    2013/07/23 23:18 ブロック