1584件のひとこと日記があります。
2016/03/17 13:48
フウジンとライアン
メジロライアンももう29歳だったんですね・・・
まさに「光陰矢のごとし」。
アイネスフウジンとメジロライアン、その鞍上(「若武者 横山典弘」と「悲運のテクニシャン 中野栄冶」)、調教師(関東の名門「加藤修甫」と「奥平真治」)の対決も相まって、さらに当時優位を築きつつあった関西馬に対抗する関東の精鋭2旗と言う事もあり、その激闘は大変盛り上がりました。
「弥生賞」「皐月賞」「ダービー」の3戦のみの対戦だったんですが、今になっても忘れ難い対決だったですね。
頂点はあのあまりにも有名な「中野コール」のダービー!!
あのレースは、日本競馬に於けるひとつの頂点だった様な気がします。
Forever メジロライアン・・・
天国でフウジンが待っているよ。
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アッシュ☆さんがいいね!と言っています。
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ふくすけさん
そう言えば、だんだん記憶が蘇ってきましたが、そんな話がありましたね!!
でも、本当のところは・・・何とも言えませんが(西山オーナーが例のブログあたりに暴露してくれれば面白いのですが。)
しかし、ミルコはとことんドライだなぁ〜。
まぁ、彼の立場からすればそれも止むを得ないんでしょうが。
しかし、自分の出資馬関連でその洗礼を真正面から受けることになるとは思いもよりませんでした(苦笑) -
ふくすけさん
Wikiで調べますと、佐藤正雄騎手自ら調教師に申し入れたとなっていますね。唯、佐藤正雄騎手の実績に関して、ニシノフラワーまでこれといった実績が無いと記述されているのは、違うと思います。'71年のオークスで3着になったことは、充分「実績」だと思います。
しかし、トーホウジャッカルの乗り代わりは一体何なのでしょう。クラシック5レースの内で唯一外国人騎手が勝っていないのが菊花賞であり、春の天皇賞もジャガーメイルのC.ウイリアムズ騎手のみ。長距離GIでは実績ないから、見モノでは有ります。唯、トーホウジャッカルが走るか否か少し疑問ですが。 -
ふくすけさん
ニシノフラワーは馬主サイドからのプレッシャーだった様に記憶しています。
西山氏もめったに訪れないクラシック制覇のチャンスに目一杯になっていたのではないでしょうか?
しかし、それを考えると、アサヒエンペラーはよく中舘騎乗をオーナーサイドが許したなぁ〜、としみじみ思います。
加藤修甫師が頑張ったんでしょうね。
まぁ、ほぼ新人だった横典のライアン騎乗も、現在では危ういですが。(きっと著名ベテランか外人に乗り変わりでしょうね。)
今更ですが、昔は馬主と対決しても調教師は子飼いの騎手を育てる、と言う気概を持っていたんですね。
馬房数の関係から、調教師>馬主だった事もあるのでしょうが・・・ -
ふくすけさん
(続き)彼女が1番人気だったはずで、佐藤正雄騎手は大健闘だったと記憶しています。クラシックに縁の無かった佐藤正雄騎手の最後のチャンスだったのに、許さん!
競馬は馬が主人公。馬だけしか見ない様にして居ります。 -
ふくすけさん
お馬さんの話から、騎手の話になりましたので、コメントさせて頂きます。或る馬の掲示板で同じ様なことを書いてますが、武豊が地位を確立してから、「ヨーロッパみたいになって来たな」 と思いました。英吉利のL.ピゴットみたいに大レースで乗鞍が無ければ、主戦騎手を降ろして彼に乗り変わるケースが普通の様に思えていましたね。メジロマックイーンの菊花賞の鞍上は内田浩一だったのに武豊に代わったり、トウカイテイオーに岡部幸雄が乗り代わったりしたのは、その象徴ですね。
しかし、今でも許せないのは、ミホノブルボンと同じ年の桜花賞馬ニシノフラワーの乗り代わりですね。鞍上の佐藤正雄現調教師は'71年のカネヒムロの勝ったオークスの3着馬バンブーキャッチャ(ホエールキャプチャと同じ尻切れ蜻蛉の馬名)の鞍上であり、別に1番人気で負けた訳でもなく、このレースは桜花賞馬ナスノカオリがオークストライアルも勝っていて -
しかし、こう見ると、加賀・郷原・中島啓之・小島太・岡部・政人・洋一・武邦・河内・田原等、沢山の名手(一部は個性派かなぁ?(笑))がしのぎを削っていた時代だったんですね・・・
今は、「ミルコ&ルメール、ときたまムーア」ですけれども。。。 -
その後は(現在では考えられないですが)、関西馬の不振が暫く続いたため、「東の有力馬に西の名手」は定常化しました。
「スダホーク・田原、ラモーヌ・河内」と言うのもその流れだと思います。
関東にも「岡部&柴田政人と言う超名手」が全盛期でしたが、政人ジョッキーは繋がりを重んじる騎手でしたので、概ね旧白井勢ないし中山勢の馬に乗る事が殆どでしたからね。(でもダービーはご存知の通り、関西馬ウイニングチケット&伊藤雄二厩舎での制覇でしたけれども) -
スダピンボールさん
昔は殆ど「重賞は日曜日」でしたから、必然的に「関東馬には関東の騎手」「関西馬には関西の騎手」と言う住み分けが出来ていました。
「東と西の対決」と言う感覚も、特にクラシックレースに於いては大変強かったですからね。
東の有力馬に西の名手(またはその逆パターン)で最も顕著だったのは、やはり「トウショウボーイと福永洋一&武邦彦」ではないかなぁ?
私は「トウショウボーイ派」でかつ「洋一・武邦支持派」だったため、もろ手を上げて賛成でしたが、当時は納得出来ない方もいたと思います。 -
ふくすけさんがファイト!と言っています。