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2017/02/25 02:04
ミホノブルボンが死亡
2月22日にミホノブルボンが死亡しました。ミホノブルボンは皐月賞・日本ダービーの二冠馬、菊花賞でも2着でした。菊花賞後、故障によって引退しました。
私が記憶に一番残っているのは、朝日杯3歳Sです。G1なのですが、今ほどあまり注目されなくて、8頭立ての地味なレースでした。私もなんとなくテレビ中継を見ていたのですが、2番手で先行していた馬が、最後の直線で先頭に立ち、外から1頭差してきて、「ああ、これは差される」と思って見ていたのですが、そこからいくらたっても差されることなく、ハナ差で押し切ったのです。今見るとそれほどでもないのですが、そのときは、「この馬は強いなあ」と感じました。直感でした。かなりインパクトがありました。
翌年は、弥生賞ではなく、スプリングSから始動したのですが、1番人気ではなく2番人気での出走になりました。そのとき、何で2番人気なのかと不思議に思いました。すると、2着に7馬身の差をつけて勝ちました。それも逃げ切りで。
競馬で一番楽しいのは、まだみんながその馬の強さを知らないで、自分の直観でこの馬は強いと思ったときに、その馬があまり人気が無いのにレースを勝つときです。ミホノブルボンの場合は早い時期からその強さは知れ渡っていたそうですが、自分の目は確かだと一瞬天狗になれるのが楽しいです。
スプリングSの馬券は買っていなかったのですが、2着に13番人気の馬が来て、馬連(そのときは馬単は無し)54,780円もつきました。3着にも7番人気が来たので、もし3連単があったらすごい配当になったでしょう。ちなみにミホノブルボンの単勝は450円でした。皐月賞は140円、ダービーが230円だったので、単勝はスプリングSが買いでした。
さらに、皐月賞を勝ったのに、ダービーで人気が落ちた(同じ1番人気でしたが、オッズは1.4倍→2.3倍)のは、血統的に距離不安があったそうです。それを、今では伝説になっている戸山為夫調教師の坂路でのスパルタトレーニングで鍛えられたスタミナで、2400mを逃げ切ってしまったのです。
とにかく競馬をやり始めたころなので深く記憶に残っています。ダービーだけでも、その前の年が20頭立てだったトウカイテイオーが勝ったレース。次が「もう追わなくていい」とアナウンサーが半泣きで声を絞り出したミホノブルボンのレース。その次が柴田政人が悲願のダービージョッキーになったウイニングチケットのレース。その次が、今でも最強だと思っているナリタブライアンのレース。その次がサンデーサイレンス旋風が吹き荒れた初年度産駒で、タヤスツヨシが勝ったレース。このころは何もが新鮮で強烈でした。


