101件のひとこと日記があります。
2012/08/25 04:48
サラブレッドの死
「じゃじゃ馬グルーミンアップ」という漫画に「サラブレッドは人間と違って生き方を選べない」というセリフがあります。私の場合は学生の時にその台詞を見たこととスズカの死を経験したことがきっかけとなり、余生牧場などのことを知っていくことになったわけですが、私はそれらのことを通じて、つまりは競争馬というものは、ある意味では生まれながらに不幸だということを学びました。生きていく過程で不幸になったということではなく、「生まれながらに」不幸という意味です。
しかし月並みですが、そのことを考えると、私の場合は例えば仕事で失敗した時や友人とケンカした時、あるいは馬券で大負けした時など、自分自身に起こる大抵の不幸は我慢できたりもします。あくまでも「私の場合は」という条件付きですが、競馬を好きでいることというのは生まれながらに不幸な生き物が増えて行くことに加担することと同じという解釈もできてしまうため、その罪のことを考えれば、自分自身に起こる大抵のことは我慢できるし、我慢できなければいけないと思うからです。
また、私はやはりサイレンススズカの死に直面したのをきっかけとして、ライスシャワーやテンポイントの物語を知り、大川慶次郎氏などが著者に名を連ねる「サラブレッド101頭の死に方」などの競争馬の死に関する本を読み、そして「乗馬」として余生を送るはずの馬達の大半が辿っているとされる厳しい運命を知り、競馬のことをより深く愛するようにもなりました。なぜそうした負の側面を知って「より深く愛するようになった」という表現ができるのかと言うと、それは単純に、競馬のことを考える「時間」がそれまでよりも長くなったからです。競馬に想いを馳せる時間が、単純に長くなったからです。
私は馬が好きですが、同じくらい人間も好きです。だから人間本位の考え方しかできません。そんな私は、そうであるからこそ、不幸な運命を辿った馬に出会うたびに、強くならなければならないと考えてしまいます。そして競馬のことを考える時間が長くなり、悲しい出来事があったはずなのに競馬のことをより深く愛するようになっている自分に気付かされます。それは言うまでもなく人間本位、そして自分本位の考え方です。しかし競争馬の死とは、私にとってはそういう意味を持つもののようです。
愛する馬の死に直面した人は、たっぷり悲しんでたっぷり泣いて、たっぷり引きずるべきだと思います。無理に元気を出そうとしなくていい。時が経つまで悲しみを乗り越えようとしなくてもいい。そんなことは考えずに、思う存分悲しむことができれば、その人はその後、少しだけ強くなり、少しだけ競馬のことを考える時間が長くなっているはずです。その馬の死を知る前より、競馬との関わりがより深くなっているはずです。人が競争馬の死にいくばくかの意味を付加することができるとしたら、そのくらいのことしかないのかもしれません。
ゴルトブリッツ。君とファルコンの対決が見たかった。
今日を境に、私はまた競馬のことで頭を悩ませる時間が長くなりそうです。