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2012/06/06 02:48
素人?調教師の台頭。
安田記念を勝ったストロングリターンの管理調教師の堀調教師が優勝後の記者会見を欠席したことがちょっとした物議を醸している。今回は海外からの記者もおり、JRAとしては顔に泥を塗られた格好だ。しかし、それ以上に問題なのはそれが「ファン軽視」に他ならないからである。主催者であるJRAはその手法の是非は別として、馬券の売り上げ減とファン離れを食い止めようと必死である。しかし、その意図を汲み取る様子があまり厩舎関係者から感じられない。貧すれば鈍するで、経済の低迷は有力馬主を偏らさせ、セレクトセールの競り市により市場は活性化したかも知れないが、高価な血統馬は一部の裕福な馬主とクラブ馬主で独占。結果、調教師はお金の方しか見なくなった。一昔前みたいに調教師という立場に誇りを持ち、いくら馬主の指示でも頑として受け入れない。そんな骨のある人材が見当たらなくなってきた。何度か口にしてきたが、競馬とは負けるのが前提のスポーツでる。当たり前の話しだが優勝できるのはわずか1頭である。騎手もリーディングを取るような騎手でも勝つのは10回に1,2回程度である。それ故に「美学」というモノが必要だと思う。自己責任とか言う言葉が独り歩きを始めた頃から世の中は荒んできたように思う。やたら個人を尊重しすぎ、良く言えばドライ。悪く言えば非人情の世の中になった。とかく、競馬でもすぐに勝負の世界は厳しくて当たり前。ドライであるべきだの風潮を見かけるが、自分に言わせれば競馬界も世の中も単に貧乏になって余裕がなくなっただけ。他人よりまず自分のさもしい世の中になっただけである。
そもそも競馬とは道楽である。明日の運転資金を気にしながらやるようなものではない。18頭走って5着までしか賞金が出ないのだから基本馬主が儲かるわけはないのだ。それでも競馬に投資をするのはそこに夢があるからだろう。今もそういう馬主がいないわけではないが、経済的にクラブ馬主に頼るようになりそういう余裕はなくなった。クラブ馬主と言っても出資者に馬主資格があるわけではないからこれはファンドでる。ファンドということはそれは投資であって投資に見合った利益を得ることを多くの出資者は考える。もちろん今でも出資者の多くは資金の回収より馬主気分を味わいたいと夢を持っての出資だと思うが、それを運営する側の考えは少し違うように思う。結果を出さなければ次の出資者を集めるのが難しくなっていく。その為にはある程度稼げる馬では分配という「実績」を作らなくてはならなくなる。その結果、意味不明なローテンションであったり、レースの使い分けっであったりが起こる。そう言った「運営会社」の意向に逆らう調教師は有力馬を干されることになる。それは歪んだいじめ社会みたいなものだ。封建的な縦社会でなく、歪んだ縦社会に競馬サークルはなりつつあるのではないかなと感じる。本来、長であるはずの調教師が馬主からの圧力を感じるとさらに弱い立場の人間に圧力をかけるようになる。本来独立した存在であるはずの騎手もやたら調教師の顔色を伺うようになる。狭い、狭い世界の競馬サークルでどんどん息苦しくなるような状況が生まれているように見えて仕方が無い。そして、気がつけば競馬ファンの存在など忘れられている。最大の出資者であるはずの馬券購入者はどこ吹く風である。もちろん、いつの時代だって本音は別にあるだろう。間接的出資者の自分たちより直接的出資者の馬主の方が重要なのは言うまでもない。だが、本音と建前がある。それは悪い意味ばかりでない。建前とは気遣いであり、嘘も方便である。だから、記者会見を平気ですっぽかす調教師も出てくるし、本番に向けての試走だと平気で話す調教師も出てくる。いまや1番人気は名誉ではなく迷惑になってしまった。人気薄でも人気でも入る賞金は一緒である。ならば、マークされやすくなる1番人気なんて迷惑であり、注目を集める騎手を乗せるのもマイナスでしかないわけである。