296件のひとこと日記があります。
2012/10/25 01:36
カスパロフさんへの返信その1
カスパロフさん、こんばんは。
短い文章で結論のみポンと書いてしまいました。
今ここですぐ、ニュアンスまでをお伝えできそうにありません。
コメント欄は字数制限がありすぎるので、日記をお借りして、普段考えていることのかけらを急遽言葉にしました。勢いです。
もしアイディア、発想という、一見パッと出てきた風に見える、時に非常識的な「新しい考え方」というものに、なんらかの法則性、それが生まれるための良い土壌があるのなら、それを是非見つけ、生きることに役立て、また周囲の人々の役にも立てるのではないかと、ことあるごとに考えています。創造的な人間は、あまりそうではない人間とどう違うのか?
これらの考えは、「知的創造のヒント」など、アイディアの出る方法論について具体的に書かれベストセラーとなった著書を多く持つ外山滋比古先生、そしてつまみ読みですが、ショーペンハウアーの「読書について」に大きな影響を受けています。
そこに自分の考えを加えて自分の意見としたいのですが、まだ言葉とするには混沌としすぎています。しかしそういう抽象的な考えを具体的な言葉にすることにとてもスリリングな興奮を感じます。そのような話をゆっくりできる知人はとてもとても少ないのですが。
知識、経験というものが、基本的に重要であることは前提です。
しかし、有史以来様々な偉人、哲学者、文人、芸術家などが、はたして既存の知識、経験というくくりの中だけでものを考え、創りだしていたかを鑑みるに、より多くの知識と経験が、よりよいアイディア、作品、哲学的成果を生み出しているのか疑問が生じました。知識、経験にそこまでの偏重を置くべきなのか。「純粋理性批判」で有名なカントは、生涯自分の住んでいる街から出たことがなかったといいます。多くの芸術家が社会から離れ、孤独の中で後世に残る作品を遺しています。ゴッホのように孤独との闘いの中、最後は狂気に憑りつかれ自ら命を絶ってしまう例もあります。しかしその作品は今や誰でも知っているんです。詩人ランボーも短命でした。中原中也も萩原朔太郎も短命です。山田かまちを挙げる人もいるでしょう。
絵画では、エコール・ド・パリのように画家たちが刺激を与え合って切磋琢磨する例もあります。しかしそれは知識でしょうか、経験でしょうか。メーテルリンクの「青い鳥」に代表される「一番大切なものははじめから自分の中にあった」というプロットは何を示唆しているのでしょうか。