296件のひとこと日記があります。
2012/12/27 17:17
「走れコウタロー」から見る日本のフォークミュージックPART2
さて、来てしまいましたねここに。
まあまあ、たまにはいいではございませぬか。
年末、まだ競馬も実は終わっていません。この忙しいときに!
分かっております骨の髄まで。お暇なとき、よろしければどうぞ。こんな風に、日本の音楽の流れを探ったりするのが生きがいなんです。ピース。
「走れコウタロー」から見る日本のフォークミュージック。
11月ごろの文章です。
風邪です。仕方なく日曜ウインズには愛用の犬ぞりで向かいました。アムンゼンとスコットの話は興味深いですよね。
いいですか、人の言うことを真に受けてはいけません。いないかそんな奴。
中途半端に寝たものだから、ちょっと目が冴えてしまった。
なんだか日記とコメントで二時間くらい使ってたよな気がする、するけど気のせいさ。
別の場所でも書いてるからなぁ。こんなんで暮らしていきたい。
ここでひとつ雑談でも。よっぽどお時間があればつらつらとご一緒しましょう。こんな時間に書いて誰か気付くのか?いや待て世界は広い。今が自分的に最高にホットな時間な人間だってわんさかいるといいな。多分いると思う。いるんじゃないかな。いやちょと覚悟はしておけ。
一人「関白宣言」はいいとしてさだまさし、あの人は歌もうまいが話術が超絶こなれていることを知っているだろうか。
私はあの人のコンサートに行ったことがある。
これがまた楽しい。「おすぎとピーコはですね、よく知ってるんですけど、あの人たち三月三日と五月五日の間、四月四日が誕生日なんですよ。納得いくでしょ?」という辺り面白い。大嘘なんだが。
日本のフォークミュージックの歴史を誰にも頼まれてないのに一人調べたりしてほくそえんでいる男なんだ実を言うと(日本史、現代史自体は勉強中であります)俺は。そういうことしててモテるかどうか、それは神のみぞ知る。菊花賞、ミルドリーム馬連で買ったからね。関係ないぞと。江田照男先生は時々やらかすぞと。
60年代フォークは高度経済成長期と相俟ってアメリカからやってきた。三種の神器ってなもんで、ピカピカの家電製品、余裕があって瀟洒な暮らし。そんな「奥様は魔女」な典型的アメリカン・ライフスタイルに国民があこがれていた頃、同時に海を渡ってやってきたのが50年代からフォーク・リバイバルとして脚光を浴びていたフォークソングだったんですね。その牽引者ウディ・ガスリーとピート・シーガーの功績は多大なものがあります。小学校の頃、音楽で「小さな手」って歌いませんでしたか。「ひとり〜の小さな手〜何も〜できないけど〜それでもみんなの手と手を合ーわせーれーば何ーかーでーきーるー♪」あれはピート・シーガーです。古くはアメリカの伝統民謡だったかもしれません。本当はもっと遡れますが、考えてみるとここ競馬サイトだった。
でも日本人は60年代初頭、アメリカ、特にニューヨークのグリニッジ・ヴィレッジでひとつの潮流となっていたフォークソング、つまり社会に対して自分の主張(反戦、社会問題など)を歌にするプロテスト・ソング(ボブ・ディラン、ジョアン・バエズが有名ですね、マッカーシーにアメリカ的でないとか難癖つけられて赤狩りの対象になっちゃって、フォークフェスができなかったりしてました。アイゼンハワーが長生きしてたらどうなったんだろ)というよりは、やはりアイビーファッション(アメリカ名門大学の学生の服装)のブーム(たしか一、二年で終わったけど)にも見られるように、お坊ちゃんお嬢さん風の、口当たりの良い「カレッジ・フォーク」が大学生を中心に知的なものとして受けていたようです。だからカレッジ・フォークのバンドは大学卒業と同時に解散します。流行は特に東京ですね。「カレッジ・フォーク」というのは日本側の呼称です。
影響力の大だったのはキングストン・トリオとかブラザーズ・フォーだとか。「パフ」やボブ・ディランを一気に有名にした「風に吹かれて」のカバーなどで知られたPPM(ピーター・ポール・アンド・マリー。ペテロとパウロとマリア。なんちゅうストレートなネーミング。これはカレッジ・フォークじゃないんですけどね)などに影響を受け、良家の子女にふさわしい音楽という捉えられ方をされていた歴史があります。冷戦、キューバ危機、黒人差別問題(ワシントン大行進のテーマソングは”風に吹かれて”)、ケネディ大統領暗殺など、深刻な問題を抱えるアメリカと、池田勇人の所得倍増政策に代表されるような、よりリッチに、豊かに生きていきましょう、明日に向かってゴーゴー!という経済面が最優先だった「三丁目の夕日」(いい漫画ですね)の日本では、いささか事情が違っていたようです。60年安保も結局あれだけ騒いどいて国は一ミリも動かなかったわけですから、そりゃシラケます。
(PART3へ続きます)