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2016/02/21 19:37
ライスシャワーの話(第4話)
こんばんは(*・∀・*)ノ
「ライスシャワーの話」の第4話を書かせていただきます。
芙蓉Sを勝って2勝目をあげたライスシャワーでしたが、直後に骨折が判明して休養することになりました。
復帰戦はスプリングS、ここでライスシャワーは宿敵ミホノブルボンと初遭遇するのです。
※馬齢は旧表記とさせていただきます
☆1992年3月29日、小雨が降る中山競馬場(重馬場)で第41回スプリングSが行われました。
ライスシャワーは6ヶ月の休み明けが敬遠されて単勝68.9倍の12番人気に留まりました。
鞍上は水野貴広騎手から柴田政人騎手に乗り替わりましたが、当時柴田騎手には3週間前に行われた弥生賞を勝ったアサカリジェントというお手馬がおり、1戦限りの約束でライスシャワーの手綱を取ったのだそうです。
1番人気に支持されたのは前年のラジオたんぱ杯3歳S(現 ラジオNIKKEI杯2歳S)勝ち馬のノーザンコンダクト、2番人気に支持されたのが前年の3歳王者ミホノブルボンでした。
朝日杯で勝つには勝ったものの終始掛かりっぱなしだったレース内容と母系がスプリント血統であることが嫌われたのか3歳王者でありながら2番人気に甘んじることとなったミホノブルボンでしたが、レースが始まってみたら終始大独走、栗毛の超特急がハナを奪った瞬間にレースは事実上終わっていたのです。
ミホノブルボンが2着マーメイドタバンにつけた着差は7馬身、名伯楽戸山為夫が鍛え上げた栗毛の超特急はクラシックへ向けて磐石のスタートを切ったのです。
ライスシャワーは4番手追走から最後はダッシュフドーとの3着争いとなりましたが、わずかに届かず4着となり優先出走権獲得はなりませんでしたが、休み明けに加えて得意とはいえない重馬場での4着は決して悲観するようなものではなく、手綱を取った柴田騎手も「横にいる馬より前に出ようとする勝負根性は見るべきものがある。自分は1戦しか乗れないが、手放すのはちょっと惜しいね」と、ライスシャワーに高い評価を与えていました。
芙蓉Sを勝っていたことで皐月賞に出走することは可能だったライスシャワーでしたが、鞍上は誰にするか、という問題が残っていました。
水野騎手では荷が重いと判断した陣営は「マーク屋」の異名をもつ関東の実力派ジョッキーに手綱を任せることとしました。
そのジョッキーの名は的場均、ライスシャワーとは次走皐月賞から最後のレースとなった1995年の宝塚記念までコンビを組むことになります。
※今回はここまでとさせていただきますm(__)m
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ライスシャワーは本格化前ですがミホノブルボンは実が入ってきてましたからね。
この頃は成長曲線という面ではブルボンがはるかに上でした。 -
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Masaさん
まだこの頃のライスシャワーは骨折明けで脚元もしっかりしてなかったしブルボンは舌出して遊びながら走って力の差は歴然でしたね