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2014/09/10 20:21
ターフに咲く花〜名牝伝説〜Vol.12
ホクトベガ
1990年3月26日生まれ
1997年4月3日没(7歳)
父 ナグルスキー
母 タケノファルコン
(母の父 フィリップオブスペイン)
42戦16勝
主な勝ち鞍 エリザベス女王杯(1993)、札幌記念(1994)、エンプレス杯(1995)、フェブラリーS.帝王賞、南部杯(1996)、川崎記念(1996、97)
管理調教師 中野隆良 (美浦)
主戦騎手 加藤和宏、横山典弘
☆「ターフに咲く花」の第12回目、今回は「砂の女王」ことホクトベガを取り上げます。
今回はいくつかの事柄に分けて書き進めていきたいと思います。
(1)「ベガはベガでもホクトベガ!」
1993年のエリザベス女王杯、競馬界の関心はベガの牝馬三冠達成成るか、という一点に絞られていました。
ホクトベガは桜花賞5着、オークス6着、トライアルでも敗れて、当日は9番人気に甘んじていました。ファンの間では少なくともベガとは勝負付けが済んでいる、というのが大方の見解でした。
実は中野師も同じことを考えていました。
しかし、中野師は秘策を持っていました。
「京都の外回りは(ほとんどの馬が芝の傷みが少ない外に進路を取るため)直線で内が空く。幸いにもホクトベガは1番枠、ここはひとつ博打を打ってみよう」中野師が鞍上加藤騎手に授けた秘策は「最内強襲」でした。
レースではその秘策がズバリと当たり、上がり馬ノースフライト、三冠を懸けたベガらをまとめて差し切り、クラシック最後の一冠をもぎ取りました。
(2)「女王様とお呼び!」
4歳時には勝ち切れないレースが続いたホクトベガでしたが、転機が訪れたのは5歳時、1995年のことです。
この年はいわゆる「交流元年」、中央馬と地方馬が競いあう「指定交流競走」が全国の地方競馬場で盛んに行なわれるようになった年です。
ホクトベガは唯一の牝馬限定の交流重賞であったエンプレス杯に出走、まるで泥田のような超不良馬場で行なれたレースではただ一頭だけ別次元の走りを見せ、2着に18馬身(タイム差3秒6)の差をつける大圧勝劇を披露しました。
翌96年からは本格的に地方交流重賞に参戦、川崎記念、帝王賞、南部杯など地方の主要な交流重賞を総なめにしました。しかも全てが大圧勝です。
ちなみに、「女王様とお呼び!」のフレーズは南部杯で後続に大差をつけてゴールインした直後に場内放送を担当していた岩手放送のアナウンサーが実際に言ったことです。(私もそれを聞きました)
(3)ドバイの悪夢、そして14年後の誕生日に
国内では敵なしとなったホクトベガは引退レースとしてドバイワールドカップに出走しました。
レース後は欧州で繁殖入りするプランもあったそうです。
現地でのホクトベガは輸送による疲労とストレスのせいで、決して本調子ではなかったそうです。
レースは当初3月29日に行なわれる予定でしたが、当日に「何十年に一度」というスコールに見舞われたため、4月3日に延期されました。
レースはホクトベガにとって最悪なものとなりました。
レース中にコースのちょっとしたくぼみに足を取られたホクトベガは鞍上横山騎手とともに転倒、悪いことにすぐ後ろにいた後続馬が避けきれずにホクトベガに激突しました。
ホクトベガは右前脚を複雑骨折、予後不良と診断されました....
ホクトベガの遺体は検疫の関係で日本に戻れず、現地で荼毘に伏されたそうです。
ホクトベガの悲劇から14年後の2011年3月26日、ヴィクトワールピサが日本馬として初めてドバイワールドカップで優勝、日本競馬界の悲願が達成されました。
その日は奇しくも、ホクトベガの21回目の誕生日でした。
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とうけいにせいさん
広瀬北斗さん>コメありがとうございます(^_^)
当時の南部杯は地元のテレビ中継の実況が場内放送としても流れてたんですよ。
だから「女王様とお呼び!」はテレビ中継で言ったことなんです(*_*)
競馬場専門の場内放送が行われるようになったのはもっと後のことです。
中野師はできることなら語りたくはなかったと思います。 -
広瀬北斗さん
まだお気楽に遠出ができたころでしたので,南部杯は当然ですが高崎記念も見に行きました。結構輸送減りのする馬でしたので,南部杯の時は少々心配でしたが杞憂でしたね。ただ「女王様」の件は話として知っていましたが,盛岡競馬場とは思っていませんでした。あのつぶやくようなアナウンスの方とは彼岸のセリフですね(笑)。メイセイオペラが勝った時もいつも通りの淡々とした(それでもちょっと張りはあったかも)アナウンスでしたから。
グリーンチャンネルでホクトベガの特集に出演された中野調教師は,最後は感極まって声を詰まらせていた事を覚えています。 -
とうけいにせいさん
おるたんさん>おはようございます(^_^)「いいね!」ありがとうございます。
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おるたんさんがいいね!と言っています。
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とうけいにせいさん
マックさん>こんばんは(^^)コメありがとうございます(^_^)
ライブリマウントを初めて見た時はショックでしたよ(-.-)
我らがトウケイニセイがまるで歯が立たなかったんですから(--;)
そのライブリマウントを川崎記念で子供扱いしたホクトベガはやっぱり怪物ですよ(*_*) -
とうけいにせいさん
msz-006さん>こんばんは(^^)「いいね!」ありがとうございます(^_^)
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マックさん
この時期はホクトベガ、ライブリマウントが交流重賞を荒らし捲っていましたね(笑)
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msz-006さんがいいね!と言っています。
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とうけいにせいさん
広瀬北斗さん>こんばんは(^^)コメありがとうございます(^_^)
中野師はホクトベガを「彼女はモナリザ、その走りは永遠の謎です」と語っています。
その言葉には別の意味もあると思います。
永遠の謎として、誰にも触れてほしくないんだと思うんですよ。
それだけ辛いことだったんですよ。あの時のことは(-_-;) -
とうけいにせいさん
セロリさん>こんばんは(^^)コメありがとうございます(^_^)
ホクトベガが交流重賞に出始めた頃、日本は不景気のどん底でした。
中津、益田、宇都宮、高崎などの地方競馬が廃止されたのもこの時期が発端です。
そんな光の見えない地方競馬に一筋の光が差し込みました。それがホクトベガです。
中央のGI馬が地方で走る、しかも他馬を子供扱いする大圧勝、大井や川崎、盛岡ではホクトベガを一目見ようとたくさんの人が集まったんです。
帝王賞の時は7万7000人、川崎記念の時は5万9000人の人がホクトベガを見に競馬場へ足を運んだんです。
彼女は地方競馬の希望でもあったのです。