66件のひとこと日記があります。
2015/10/17 04:49
あゝテンポイント −悲運の名馬ー
「尊厳死」とはどういうことなのか?自分なりに描いてはいたが、現実にわが身に迫ってあれこれ考える中で愛馬二頭との哀しい別れが重なった。思えばわが人生の大半がお馬さんと歩んだ人生だったこともあり、お馬さんに多くのことを教わってきたし、助けられてもきた。いまここに至って遠慮することはない、思いの丈を全部話しなさいと、だったら、テンポイントだよね、それに尽きるよねと、よって、テンポイントが残したもう一つの歌も紹介したい。
あゝテンポイント −悲運の名馬ー
作詞/桂 葉子
走る運命(さだめ)に耐え抜いて 痛んだ後肢(とも)で駆けあがる
淀の芝(ターフ)は雪模様 寒かろ 重かろ 辛かろう
あゝ悲運の名馬 テンポイント 勝つことだけに 生きてきた
忘れはしない 栄光の 有馬記念のゴール前
果たす雪辱 瞳(め)がうるむ かちどきどよめき ファンファーレ
あゝ悲運の名馬 テンポイント 王者の姿 いま一度
コントライトの血が騒ぐ あのワカクモの血が走る
凱旋門に夢はせた 希望(のぞみ)が 誇りが 散って行く
あゝ悲運の名馬 テンポイント 聞きたい せめて いななきを
1978年1月22日京都競馬場で行われた日経新春杯、雪降る淀のターフで66.5Kgという斤量を背負って走ったテンポイント、海外遠征を前にして関西の競馬ファンの強い希望があって、その勇姿のお披露目とした壮行会となるはずだったが、、、。4コーナーで左後肢を骨折、本来であれば予後不良でその場で安楽死となるはずが、ファンやオーナーの強い要望で日本中央競馬会は33名の獣医師からなる医師団を結成し、異例の手術と治療を43日間続けた。手術は成功し2月12日には医師団の「もう命は大丈夫、生きる見通しが強くなった」のコメントがあったが、実際には起き上がって体重が懸かった際に埋め込まれたボルトが曲がり、折れた骨がずれ、そのままギブスが固定され、同13日に患部が腐敗し骨が露出しているのが確認され、同月下旬右後脚に蹄葉炎を発症、鼻血を出すようになるなど症状が悪化。3月3日事実上治療は断念。3月5日午前8時40分、蹄葉炎により死亡。結局、安楽死は最後まで行われず、ファンやオーナーの強い希望での自然死が選択されたことになった。
骨折前500Kgあった体重が300Kgを切っていたとも推測され、そこにテンポイントの勇姿は既に無く、大きな犬のようだったと。
紹介した歌の副題に「悲運の名馬」とありますが、多くの競馬ファンはレース中に骨折したことが悲運と思っているでしょう。私はまるで違うんです。「ファンあっての競馬」「馬は経済動物」という現実は私も認めて競馬を楽しんでいる一人です。前回の繰り返しになりますが、お馬さんにとって競馬場は戦場であり、お馬さんは兵士です。ですから予後不良と判断された骨折は名誉の戦死なのです。これを悲運というなら、頑張って走ったお馬さんはあまりにも哀れです。悲運とはまさに希望の無い過酷な43日間の治療を強いられた事です。見るも哀れな姿を晒す事になった最後に、テンポイントの尊厳がないのです。たとえ命を取り留めても、後肢を傷めては種牡馬としての道も断たれます。
33人という大掛かりな医師団は、経済を優先した人間のパフォーマンスとしか思えないのです。それを言ってほしい、馬にも尊厳死があってしかるべきと。そんな、テンポイントの声が私には聞こえるのです。競走馬としては珍しい尾花栗毛で流星、太陽の陽を受けると見事に金色に輝きました。母ワカクモ、祖母クモワカともに競走馬として11勝の成績、テンポイントもまた11勝で生涯を終えました。好敵手と言われたトウショウボーイは第2回有馬記念を最後に種牡馬となって1992年にテンポイントに同じ蹄葉炎でなくなっている。
テンポイントは1990年に顕彰馬に選定されているが、1984年の初めての顕彰馬選定には漏れている。種牡馬実績がなく、競走馬成績だけでは特に際立ったものが無いというのがその理由だったが、多くの心ある競馬ファンの強い希望で叶ったと聞く。
私にとっても沢山の思い出を残してくれた大事な大事なお馬さんです。蛇足ですが、全18回の出走で一番人気が14回。人気が禍した悲運かもしれません。しかし、その悲運があって、顕彰馬として永遠に語り継がれる名馬でもあります。
尊厳死、人も馬も同じが、私の持論。
-
ダビスタ牧場厩務員さんがファイト!と言っています。
-
また、切れてしまったので、その後を書きます。万が一があってはいけないと涙ながらに松永善晴を説得したとされる。連続出走記録の懸かった競走前であり、その記録を誇りとし誰よりも楽しみにしていた松永は「(ナイスネイチャのことを誰よりも知っている)お前がそういうのだったら、仕方が無いな」と言い、馬場の言を認めたという。また馬場はナイスネイチャのファンとの交流も欠かさず、送られてきた膨大な千羽鶴をナイスネイチャの馬房の扉に飾り、競馬の後にはメンコやゼッケンを気軽にファンに配布した。稲垣によれば、ナイスネイチャに会いに栗東を訪れるファンのうち、相当数が馬場のファンでもあったという。馬場は1998年に交通事故に遭い41歳で死去したが、これはナイスネイチャを通じて知り合ったファンの結婚式に出席した帰路での出来事であった。
-
どうもありがとうございます。お元気ですかね。テンポイントさんと心配していました。
私のひとこと日記にも載せましたが、ナイスネイチャという馬をネットで調べているうちにいい話があったので紹介します。競走馬時代の担当厩務員であった馬場秀輝の結びつきは非常に強いものがあったそうです。若馬の頃のナイスネイチャは我が強くスタッフが手を焼く存在であったが、馬場は全く怒ることなく接し続け、やがてナイスネイチャは馬場に対しては引き綱なしで後ろを付いて歩くほど大人しい馬となったそうです。稲垣氏という人が、それほどまでの信頼感が馬と人の間にあるケースは実に珍しいと評しています。
ナイスネイチャ引退の原因となった脚の怪我を発見した際には、ごく小さいひび割れで、ラストランの予定となっていた有馬記念を走っても問題ないほどのものだったが、馬場は馬の将来を思い、万が一があってはいけないと涙ながらに松永善晴を説得したと -
きんちゃんさん
ダビスタさんコメント有難うございます。有難うと言える友達がいて生きる意欲が湧いてきます。人それぞれに思い出のお馬さんがいる、競馬が単なるギャンブルではない、私にとって生き甲斐とまで言って言い過ぎではありません。身内以上のお友達なのです。
-
お元気でしょうか。テンポイントのことが非常によくわかりました。私はまだ、競馬を始めていなかったので詳しい話はわかりませんでした。私にとっては悲劇の名馬の1頭はケイエスミラクルという馬です。ダイイチルビーやダイタクヘリオスがライバルでした。体質的に弱い所がありましたが、天才的なスピード馬でした。マイルチャンピオン3着の後、1991年のスプリンターズSの途中で故障し予後不良となりました。私はそのレースをウインズの大画面で観て、思わず悲鳴を上げてしまったことを覚えています。周りの人も声を上げていました。これからの馬でした。騎乗していた岡部騎手は呆然としていました。
-
ダビスタ牧場厩務員さんがいいね!と言っています。